合宿ワーク、ある参加者からの質問です。
「離婚しようかどうしようか迷いたずねる相手に、
Koyoさんは、離婚を勧めるような発言をしたかと思えば、
次の瞬間には、真逆の発言をしているように聞こえます。
本当のところは、どちらなのですか?
また、自殺したいという人に、
Koyoさんは、それを止めないという慈悲のないような
発言もありました。それはどうしてですか?」
↓
どちらでもいいんです。
とにかく、あなたがなにをしたがってるにせよ、
私は、他人の生き方に干渉したくないのです。
私はあなたが、自分の思考過程、企みや意図、
しようとしている様々なこと等々に、
気づいていくことに、あらゆる助力を惜しみません。
あなたが、何を恐れ、何に執着し、
何から逃れようとしているのかに気づくこと、
更にはあなたが、本性に気づいていくことに貢献します。
それが私の生来の質であるからです。
(吉福伸逸さんは私のその生来の質を見抜いて
「あなたはこれをやる必然性がある」と
私をここに招いたのだと思います。)
しかし、それは、救うという問題ではありません。
私は誰のことも救えません。
誰ひとり他人を救うことはできないと考えています。
誰かを救うという考え自体が誤った基礎に基づいている
と私は思います。
人は、自分しか助けることはできない。
もしあなたが、『気づいている』のが嫌なら、
それもあなたの生得権です。
私はあなたの自由を侵害したくありません。
全ての人に、誰にも、
自分自身であるための絶対的自由があります。
だから、
たとえ善意からであろうと、
他の誰かの生や、生き方に干渉することは、
誰にも許されないと私は思います。
つまり、慈悲心とは、欲望の別の名なのではないか、
というのが私の感想です〜。♪
※う〜ん、友の育てた玄米炊きたて。
一粒一粒、旨し〜。♪